シン・オール電化その3:再エネ電力の温熱利用——産業熱の大転換(低温プロセスから製鉄まで)
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【本号の要旨】
本論では世界最終エネルギー消費の約20%を占める「産業熱」の電化を論じる。前号のデンマーク・民生熱に続き、今号は産業の現場に入る。産業熱は温度帯によって電化の難易度が大きく異なる。低温域(100℃以下)は産業用ヒートポンプで今すぐ代替できる。欧州では食品・化学・製紙工場での産業用HP導入が加速しているが、日本は政策の不在により出遅れている。高温域の最難関・製鉄では、欧州が実証から商用化へと動いている。スウェーデンHYBRITは2021年に世界初の水素製鉄鋼材を出荷済み、ドイツのThyssenkruppは2027年完成を目標に年産250万トンの水素DRIプラントを建設中だ。日本の高炉継続方針はCBAMリスクにさらされており、転換の時間的余裕は残り少ない。
喫茶去では「個人史としての近代化の光——五右衛門風呂から生成AIまで」を。山口の山間地で育った個人史を通して、近代化の恩恵が身体感覚として届いた体験を記す。
奥の間「文明の燭洞幾」では、「PCR検査という踏み絵——科学が政治に届かない国の解剖」を論じる。PCR関連技術の発展に貢献してきた日本がコロナ禍でその検査を最も貶めた逆説を入口に、科学的概念が政策回路から構造的に排除されるメカニズムを解剖する。産業電化政策が存在しない日本の病理と同型の構造だ。
【本論】
前号(6月1日号)では民生熱——暖房・給湯・地域熱供給——を論じた。デンマークが1973年の石油危機から半世紀をかけて積み上げてきた制度・技術・文化の総体を論じ、日本との「温熱はユニバーサルサービスか・自己責任か」という哲学的対比を明らかにした。
今号は産業熱に移る。産業熱の脱炭素化は、民生熱より困難で、より大きく、より急がれている。しかし欧州は「難しいから先送り」ではなく、「難しいからこそ今から始める」という原則で動き出した。デンマークが民生熱で世界をリードしたように、欧州の鉄鋼産業は製鉄の脱炭素化に世界で最も早く挑み、いま——その活路と、つまずきの両方を——世界に先んじて示しつつある。後述するように、欧州が高い授業料とともに示した教訓こそ、日本の選択を読み解く手がかりになる。
第1節:産業熱の温度帯地図——低温・中温から始める
産業熱の電化を論じるには、まず「温度帯」という概念が不可欠だ。産業プロセスが必要とする熱の温度帯は、用途によって100℃未満から1500℃以上まで幅広い。
産業熱のすべてが直ちに電化できるわけではない。しかし、温度帯によって電化の難易度は大きく異なる。IEAは、2030年時点で産業用暖房需要の約4割がヒートポンプに適した温度帯(100℃未満の低温域)にあると見ており、150℃程度までの中温域でも商用機・実証機の適用が広がっている。

「産業熱の電化=超高温製鉄の問題」という先入観が間違いであることがわかる。低温・中温から始めるという優先順位の問題だ。
第2節:低温・中温の電化——欧州の先行事例と日本の不在
産業用ヒートポンプ——欧州で加速する低温産業熱の電化
前号で民生熱のヒートポンプ(COPが1を超える理由・ΔTの設計思想)を詳しく論じた。産業用ヒートポンプはその工場版だ。
Arla Foods Ingredientsは、デンマークの主力工場Danmark Proteinに、同社として過去最大(3,200万ユーロ)のネットゼロ投資となる電動ヒートポンプを導入した。2.8MWの電力を8MWの熱と5.7MWの冷水(アイスウォーター)に同時変換し、90℃の熱分配網に供給してガスボイラーを代替する。これにより同工場のCO2換算排出を年間約14,500トン(2023年比22%)削減する見込みで、2025年に稼働、2026年には100%グリーン電力で運転する計画だ。「熱と冷を同時に取り出す」というのは産業用ヒートポンプの典型的な強みで、デンマークの酪農・食品産業はエネルギー集約的であるだけに、熱需要の電化が産業全体の脱炭素化の鍵となっている。前号で論じたP2H(Power-to-Heat)の産業版として、風力余剰電力を熱に変換・蓄熱する取り組みも各地で広がっている。
技術的な進歩も著しい。従来の産業用HPは出力温度が90〜100℃が上限とされていたが、デンマークのDanfoss(圧縮機技術で現在120℃、150℃を視野)、ノルウェーのHEATEN(最大200℃の蒸気を供給)など、中温域への適用拡大が続いている。Danfossはデンマーク工科大学(DTI)やFenagyと炭化水素冷媒で150℃級を狙う実証も進めており、150〜200℃帯の商用化が次の焦点になりつつある。

日本の現状:
日本は産業用ヒートポンプの補助政策がほぼ存在しない。日本にも省エネ・燃料転換・電化を支援する補助制度はある。しかし産業用ヒートポンプや直接電化を産業脱炭素の中心政策として大規模・体系的に位置づける枠組みは弱い。GX移行債の政策的焦点は水素・アンモニア・CCS・原子力に置かれており、低中温産業熱の直接電化は政策の主役になっていない。IEAによれば産業用HPの世界市場は2030年までに3〜4倍に拡大する見通しだが、日本はこの市場で後手に回っている。カーボンプライシングが事実上不在という制度的問題も、導入インセンティブを損なっている。
第3節:欧州の脱炭素製鉄——水素ルートの「コストの壁」と、残る電化の骨格
高温域の最難関・製鉄で、欧州は2020〜23年に巨額の官民資金を投じて先陣を切った。前号でデンマークの50年史を辿ったように、ここでも「欧州が先行したのは偶然ではない」という構造がある。ただし2024〜25年、その先頭集団は一様に「水素のコストの壁」にぶつかった。重要なのは、何が止まり、何が残ったかだ。結論を先に言えば——止まったのは水素ルート、残ったのは電化の骨格(電炉・電気式溶融炉)と、水素を介さない直接電解だ。

HYBRITプロジェクト——スウェーデンが世界初を実現した
スウェーデンのHYBRIT(SSAB・LKAB・Vattenfallの三社合弁)は、水素直接還元製鉄の世界的な先駆者だ。
製鉄の基本反応を比較すると:
```
高炉(従来):Fe2O3 + 3C → 2Fe + 3CO2 ← CO2を排出
水素DRI: Fe2O3 + 3H2 → 2Fe + 3H2O ← 水だけ排出
```
HYBRITはこの水素還元を実用化した。
- 2020年:ルレオーにパイロットプラントを稼働
- 2021年:世界初の水素直接還元による化石フリー海綿鉄を製造し、ボルボ・グループに化石フリー鋼を納入(世界初の化石フリー鋼製部品)
- 2024年:6年間のパイロット研究の最終報告を提出。水素還元海綿鉄が従来材より優れた品質を示すことを確認
- ガリバレ(Gällivare)の実証(デモ)プラント:年産約130万トン規模を計画し、2030年に約270万トンへ拡大する構想。当初は2026年稼働を目標としたが、環境許認可手続きの長期化により、LKAB自身が着工・生産開始の後ろ倒しの可能性を認めている
注目すべきは、この実証プラントが「電化の塊」である点だ。500MWの水電解設備、世界初の産業用「電気式プロセスヒーター」(プロセスガスをグリーン電力で加熱)、そして海綿鉄を溶かす電炉(EAF)——水素そのものもグリーン電力からつくる以上、製鉄脱炭素の土台は電力にある。
HYBRITが成立する理由はスウェーデン北部の立地条件にある。LKAB(鉄鉱石)・Vattenfall(再エネ電力)・SSAB(製鉄)が同じ地域に集積しており、水力・風力の豊富なグリーン電力でグリーン水素を製造し、その水素でLKABの鉄鉱石を還元し、SSABがそれを製鉄する——バリューチェーンが地理的に完結している。
ThyssenkruppのtkH2Steel——欧州最大の工業脱炭素プロジェクト
ドイツのThyssenkrupp Steelは、欧州最大の製鉄工場であるデュイスブルク工場の脱炭素化プロジェクト「tkH2Steel」を進めている。
- 2022年:SMS groupに18億ユーロ超の水素対応DRIプラント建設を発注
- 2023年:EU委員会がドイツ連邦・州政府からの資金支援(約20億ユーロ)を承認
- DRIプラント(年産250万トン):当初は2026年末〜2027年の稼働を計画。電気式溶融炉2基を組み合わせ、まず天然ガスで立ち上げる設計
- 2028年:水素の使用開始、2029年:グリーン水素100%運転(年間約14.3万トンの水素使用)を目標
- CO2削減量:年間最大350万トン(デュイスブルク工場全体の約20%)
ただし2025年3月、Thyssenkruppはグリーン水素の調達入札を無期限で停止した。提示価格が想定を大きく上回り、水素経済の立ち上がりが遅いためだ。DRIプラントの建設自体は継続するが、当面は天然ガスで運転する見通しで、それでも高炉比でCO2を約50%削減できるとしている。ThyssenkruppのDRIプラントは、Midrex技術に「電動溶融炉(電気炉)」を組み合わせた設計で、天然ガスを使う高炉をDRIプラントと電動溶融炉で代替するものだ。なお同社は鉄鋼部門の所有をめぐる混乱も抱えており(2026年初時点でJindalによる買収提案が報じられている)、転換の道のりは平坦ではない。
ArcelorMittalの「撤退」が示したもの——水素ルートの不採算
ArcelorMittalはハンブルクに欧州唯一のDRI+EAF(電気アーク炉)一貫プラントを持ち、ここで水素DRIの実証を構想してきた。だが2024年11月、同社は欧州での新規DRI-EAF投資の最終決定を見送り、2025年6月にはドイツ・ブレーメンとアイゼンヒュッテンシュタットの2拠点の脱炭素計画(合計13億ユーロの公的支援が条件付きで用意されていた)を正式に撤回した。理由は明快だ——「グリーン水素はまだ実用的なエネルギー源ではなく、天然ガスベースのDRIも移行策として競争力がない」。当時の水素価格は約5〜8ユーロ/kg、製鉄で成り立つには2.5〜3ユーロ/kgが必要、という認識だった。
ここで見落としてはならないのは、ArcelorMittalが「電化そのもの」を捨てたわけではない点だ。同社は2025年5月、電力価格や支援条件の整うフランス・ダンケルクでは電炉(EAF)建設を進めると表明した。撤退したのは「水素DRI」であって、電炉は残った。
ドイツのSalzgitter AGのSALCOS(Salzgitter Low CO2 Steelmaking)も同様だ。第1段階(直接還元炉+電炉+100MW水電解、総額約23〜27億ユーロ、うち公的支援約10億ユーロ)は建設中だが、稼働は当初の2025年末から2027年前半へ後ろ倒しされ、第2・第3段階(水素利用の拡大)は2025年9月の取締役会で約3年延期された。CO2を95%削減する最終目標も2033年だ。元H2 Green Steel(現Stegra)も送電網の補強遅れで稼働を約1年延期している。
欧州の経験から引き出すべき教訓は二つある。第一に、「政府が資金支援し、企業が技術リスクを取り、市場が低炭素鋼材に価値を付ける」という官民連携の連鎖は、20億ユーロ規模の支援をもってしても水素のコストの前では揺らいだ。「市場に任せれば技術革新が起きる」という観念が誤りであるのと同じく、「補助金さえ付ければ水素で回る」という想定も甘かった。第二に、それでも撤回・延期の渦中で生き残ったのは電化の骨格——電炉、電気式溶融炉、水電解——だった。欧州が高い授業料を払って示したのは、「製鉄脱炭素の本筋は電力であり、水素はそのうち高コストで遅い経路だ」という現実だ。この含意は、次節以降の日本の選択を読み解く鍵になる。
第4節:電解製鉄(MOE)——第三の経路
水素製鉄とは別に、電気を直接使って鉄鉱石を電気分解する「溶融酸化物電解(Molten Oxide Electrolysis・MOE)」という経路もある。米国MITスピンオフのBoston Metalが開発を進めている。

MOEは溶融した鉄鉱石に電流を流し、酸素を分離して純鉄を得る。CO2を一切排出しない。水素を経由しないため、水素の製造・輸送・貯蔵というコスト要因をまるごと回避できるうえ、高純度の高級鉄鉱石(世界供給の約3%)に限られる水素DRIと違い、あらゆる品位の鉄鉱石を使えるという優位性がある。前節で見た「水素のコストの壁」を構造的に迂回する経路である点で、いま改めて注目度が高い。ArcelorMittalなどが出資している。
Boston Metalは2024年にブラジルで鉱滓から高付加価値金属を回収するパイロット商用機を稼働させ、2025年3月にはマサチューセッツ州ウーバンでグリーン鋼向けの「多重不活性アノードMOE産業セル」の試運転に成功した(「トン単位の鋼が出湯している」とCEO)。最初の実証プラントは2026年の展開を計画している。商用化は2030年代以降だが、DRI-H2とともに——いや、水素を介さない分むしろそれ以上に——高炉の代替技術として有力視されている。
第5節:日本の製鉄——高炉継続方針とEU炭素国境調整メカニズムへのリスク
日本の粗鋼生産は年間約8,000〜9,000万トン(世界第3位)、その約75%が高炉一貫製鉄だ。日本製鉄・JFEスチール・神戸製鋼の大手三社は「高炉への水素混焼」を脱炭素戦略の柱に据えている。しかしこの戦略には三つの構造的問題がある。
問題①:水素混焼の削減効果は限定的だ。
高炉プロセスへの水素混焼で削減できるCO2は理論的にも最大30%程度にとどまる。「高炉を水素で動かせばグリーン製鉄になる」は誤解であり、抜本的な脱炭素にはDRI-H2かEAFへの転換が必要だ。
問題②:EU炭素国境調整メカニズムへのリスクが現実化する。
EU炭素国境調整メカニズム(CBAM)は2026年1月から本格運用(定義フェーズ)が始まった。高炉で作った鋼材をEUに輸出する場合、EU-ETS価格に連動したCBAM証書の購入・償却が求められる。ただし2025年のOmnibus簡素化(規則EU2025/2083)で年間50トンの少額免除が導入され、また証書の最初の購入・償却は2027年に後ろ倒しされた(2026年の輸入は財務上の負担を発生させるが、証書購入は2027年)。負担はEU-ETSの無料割当廃止と連動して段階的に強まる仕組みだ。EU向けの輸出量は日本の鉄鋼輸出全体の一部にとどまるが、CBAMは高炉由来鋼材の炭素コストを可視化し、低炭素鋼材との価格差を制度的に広げる効果を持つ。HYBRITやStegra(旧H2 Green Steel)のような低炭素鋼材との競争が本格化する2030年代には、高炉製鉄の競争力は大幅に低下するリスクがある。
問題③:転換に時間がかかる。
高炉の設備投資は巨大で、一基の寿命は20〜30年だ。今から「次の更新はEAFかDRIにする」と決めないと、2040〜2050年代も高炉を使い続けることになる。「水素混焼で時間を稼ぐ」戦略は転換の先送りというリスクを内包している。
ThyssenkruppはEU・政府の支援(約20億ユーロ)を受けて転換に踏み切り、躓いたのはあくまで「水素の調達」であって、電気式溶融炉を組み込んだDRIプラントという電化の土台は建設を続けている。Salzgitterも電炉・水電解の第1段階は建設中だ。つまり欧州は、水素で苦戦しながらも「あとで完全に切り替えられる電化のインフラ」を先に据えている。これに対し、日本製鉄・JFEが同様の転換(高炉からDRI+電炉へ)を実現するための政策的支援は存在せず、方針はむしろ高炉を残したままの水素混焼に向かっている。これは個別企業の問題ではなく、「産業転換を官民で分担して推進する」という概念が日本の政策設計に入っていないことの帰結だ。

第6節:「産業電化政策が存在しない日本」という構造
前号で「ユニバーサルサービスとしての温熱政策が日本に欠落している」と論じた。産業熱についても同型の問題がある。「産業電化を推進する政策的枠組みが日本に存在しない」という問題だ。

IRA(米国)との比較:
米国IRAには「産業脱炭素化促進パイロットプログラム(Section 40331)」があり、産業熱の電化を含む脱炭素化プロジェクトへの直接補助を行う。「先進製造業生産税額控除(Section 45X)」は産業電化設備の製造・導入を支援する。
日本のGX移行債(20兆円)では、産業用ヒートポンプへの直接補助は事実上存在せず、水素・アンモニア混焼・CCS・原子力への大規模支援が中心だ。
「水素で産業熱を脱炭素化する」という観念の問題:
5月25日号で論じた「電化の倍数効果」を産業熱に当てはめると、産業用ヒートポンプは天然ガスボイラーの2〜5倍の効率を持つ。一方、グリーン水素による熱プロセスは、電気→水電解(効率70〜75%)→燃焼という経路で50〜60%のエネルギーロスが生じる。直接電化できる低中温帯(〜200℃)で水素を使うのはエネルギーの無駄だ。
しかし日本の政策は「産業熱=水素・アンモニア混焼で脱炭素化」という方向に向かっている。これは既存の工場設備・ガスインフラ・エネルギー供給体制を大きく変えることなく「グリーン」を謳える方法として既存産業に都合がよい。「直接電化が設備更新・電力調達・工程管理に土台からの変化を求める」のに対し、「水素混焼は今の設備を使い続けながら少しずつ変える」という選択は、Alex Steffenが命名した「略奪的遅延(predatory delay)」の産業版だ。
次号(6月15日号)は交通の電化——EVと交通システム全体の転換を論じる。
参考文献
本論と奥の間で引用・参照した文献の一覧は、別ページ(Google Doc)にまとめています。
喫茶去|個人史としての近代化:光の側面——五右衛門風呂から生成AIまで
—— 「喫茶去(きっさこ)」——禅語で「まあお茶でも一杯」。本論で固くなった頭へのコーヒーブレイク。エネルギーの話も、無関係な話も、気の向くままに。
山口県の山間の小さな集落で、12歳まで育った。
五右衛門風呂だった。薪で湯を沸かし、底が熱いので浮き蓋を踏みながら入る。トイレは汲み取り式で、手洗いは吊してあり下から手で押すと水が出てくる不思議な仕組みだった。トイレのし尿は村の田畑のあちらこちらにあった肥だめに運ばれ、貴重な肥料として利用されていた。夢中で走り回っているうちに肥だめに落ちて、全身がし尿まみれになって泣きながら家に帰った覚えがある。
家の裏に牛小屋があった。いたずらをすると閉じ込められた。そこに貯蔵してあった生のサツマイモをおやつに食べた。村中の柿の木の場所と甘い渋いの区別、山奥のアケビが採れる場所、食べられるキノコと毒キノコの見分け——物心のつく頃にはそれが普通の知識だった。自宅には3組の百科事典シリーズがあった。野山を駆け巡ることと、その百科事典を通読することに夢中になった。
5歳の秋、東京オリンピックがあった。その少し前に、我が家にテレビが来た。
移動は父親のオートバイだった。ガソリンタンクの上に自分が座り、荷台に兄が乗って3人乗りで山道を走る。それがやがて軽四輪になった。小学1年から算盤を習い、暗算は何桁でも自在にできる自信があった。しかし中学で初めて電卓に触れ、高校・大学と使い続けるうちに、いつしか暗算ができなくなった。何かが便利になるとき、何かが静かに失われる。
1977年、大学に入って初めて大型コンピュータに触れた。カードに一枚一枚パンチを打って、それを読み込ませる時代だ。パーソナルコンピュータを買った仲間の下宿に集まりカセットテープに打ち込んだ単純なゲームのプログラムを持ち寄って遊んだ。今から見れば信じられない手間だったが、あの時間の密度は特別だった。
80年代はじめに会社に入った。文書はまだ手書きで、専門の「清書屋さん」がいた。ワープロが来て清書屋さんは消えた。海外への通信はテレックスで専門のオペレータがいた。FAXが入ってテレックスのオペレータも消えた。
80年代半ばにMacに出会った。以来ずっとMacだけを使っている。当時はいつも少数派だったが、90年代のこと、とある再生可能エネルギー関係の小さな国際ラウンドテーブルで、参加者が一斉に開いたPCがどれもMacだったことに、全員で苦笑いした記憶がある。
90年前後はニフティサーブでパソコン通信を始め、90年代半ばに初めてインターネットのブラウザを開いた。その最初の画面を見たとき、何か巨大なものが始まったと感じた。
90年代後半から携帯も使い始めた。2007年、スティーブ・ジョブズがiPhoneを発表する様子を、深夜、画面越しに見た。翌年の3G対応モデルから使い始め、今に至る。2019年には日産リーフに乗り換え、自宅を新築して太陽光とV2Hを導入した。2022年に発売されたテスラ・モデルYとテスラの蓄電池に切り替えたその年の秋に、ChatGPTが公開された。
五右衛門風呂から、生成AIまで。一人のこれまでの人生で、これほどの変化が起きたことを、どう受け止めればいいのか。しかも、変化はますます加速している。
小学6年の夏休み、大阪万博に行けなかった。家の事情で。同世代で万博に行けなかった同じ境遇の少年を、後年読んだ漫画『20世紀少年』に見つけて思い出した。気づいたら、今の自分の生活は、行けなかったあの万博が見せようとした「未来」よりも、はるか先を走っている。
この連載は、新著『Ei革命』の"要約"ではありません。出版後に古くなる議論ではなく、出版後に加速する現実を追いかけるためのニュースレターです。
奥の間「文明の燭洞幾」|6月中は無料開放
「燭」はろうそくで暗闇の一点を照らし出すこと。「洞」は穴を貫いて深層を見通すこと。「幾」は『易経』の語で、変化の極めて微かな萌芽——肉眼には見えない転換の兆しを指します。「萌芽を照らし出し、深く貫いて読む」という知的営みを、この場でともに続けていきたいと思っています。
本論(広場)が「何が起きているか(What)」を論じる場だとすれば、奥の間は「なぜそうなのか(Why deeper)」を掘り下げる場です。エネルギー・文明・政治・AI・歴史——これらを縦横に使いながら、現在進行形の転換の深層を透視していきます。
今号の奥の間:「PCR検査という踏み絵——科学が政治に届かない国の解剖」
月額980円。7月6日号より課金開始。




